インターネットという罠

ネットは知識の宝庫ではない

 いやはやインターネットとは大したものである。電車の乗り継ぎも料金も指定席の予約だって一発で出来るし、一度も行ったことのない街の風景も事前に確認できる。新発売のあの製品の評価だってすぐ分かる。もう変なものをよく知らずに買って後悔することもない。ちょっとキーワードを入れて検索すればなんだってわかってしまう。もう紙の本なんて要らないし、面倒くさい勉強なんて必要ないだろう。…とは思わないでほしい。なるほどインターネットは宝の山である。しかし、それ以上に無価値な石ころや一見魅力的ではあるが実はたいへんに危険な猛毒までも含んでいる。これを見破る力を持たずしてネットの魑魅魍魎(ちみもうりょう)にのまれては正常な判断力を失ったネット廃人の道へまっしぐらである。心してほしい。
 そもそもインターネットで発信される情報に系統的な体系的な知識は多くない。それらは紙の書籍で蓄積されてきた歴史が長く、ネット上での蓄積はまだ少ない。しかも紙の知識をネット上で展開するには著作権上の問題もある。さらに近年の傾向としてファイスブックやツィッターなどお手軽な経験や感想の共有に適したメディアが人気を得ると、緻密で系統的な論考はますます隅に追いやられてしまう。それどころかあちらこちらの情報源を食い散らかして不正確にコピーした「まとめ」サイトやフェイクニュースという名のあからさまなデマまで大手を振って登場するに至っては論外である。
 ネットの中にも有用な知識はあるが、それを見分ける力を持たないものにはすべてがごみであり毒である。ネットで調べればわかるから勉強しなくてもいいとか、考えなくても大丈夫、などということは断じてない。ネットを有用に使うためには十分な基礎知識と的確な判断力が必要不可欠である。

ネットユーザーは100万人のあなた、というよりあなたの悪いところが100万人分かもしれない

 物事を深く考えないということはとても危ういことである。自分の考察に自信を持てない人はついついネット上の多数派意見に流されがちになるかもしれないが、多数派が常に正しいとは限らない。というより大多数の人は物事を深く考えないので多数派の選択は常に危なっかしい。歴史上、多数派意見が誤った道を選択し多くの人を不幸に導いた事例は枚挙に暇がない。ほとんどの戦争は多数の国民が望んで発生している。そして不幸な現実を体験してもなおあの戦争はやむをえなかった、「国」を守るための尊い犠牲であった、という正当化がなされる。それは醜い自己保身であり、犠牲者への冒涜であり、知性の死である。我々のなすべきことは戦争という最悪の選択に至った原因の考察であり、戦争をしなくても済んだ可能性の追求である。このなすべきことを捨て去り、戦没者を英霊と呼んで「英霊の守ったもの」を守り続けよと主張するとき人々は性懲りもなく戦争を繰り返していく。
 ネットユーザーは100万人の私なのだから基本的には善良なはずだ、などと安易に考えてはいけない。特に活発で影響力のあるユーザーの中にはどす黒い負の情念が潜んでいる場合がある。ネット上の「叩き」は今に始まったわけではないが、近年常軌を逸していじめに近くなった。犯罪者はおろか、20世紀の頃であれば今度から気を付けなさいよ、で済むような微罪、ちょっとした過失、好いたの惚れたのと当事者以外どうでもいいような不倫騒ぎまで容赦なく叩きつぶすようになった。非難し、中傷し、個人情報をさらし、デマを流し、会社や自宅に嫌がらせをする。それ自体が犯罪に近いケースも少なくない。こうした一部ネットユーザーの行動を見ていると常に誰かをおとしめていないと自我が保てない気の毒な人物なのかと疑いたくなる。決して立派な品性ではない。このような人々が盛んに活動し同類を増やし続ける活動の場がインターネットである。ネットの海にはガラクタの山どころか性質の悪い妖怪までが住んでいる。

反知性主義の罠

 インターネットの利点は遠く離れていても簡単に共通の興味をもつ人たちのグループが作れる点にある。しかし、そのために若年者や子供だけのグループ、勉強が苦手で知識も不十分な人たちだけのグループが多数生まれることになった。こうしたグループでは初学者にありがちな誤りや間違った意見が出てきても、それを指摘し矯正する指導者がいない。だから間違った知識がそのまま定着しがちである。しかもいったん定着してしまえばそれはそのグループ内では周知の事実となりなかなか修正されにくい。それどころか誤った知識に自信を深め、その誤りを指摘するものに反感を抱いたりあからさまに攻撃をするようになる。知性を憎み、知性を代表する人格、例えば教育者や知識人に反発する反知性主義の台頭である。
 頑なな反知性主義には一つの特徴がある。陰謀論の一種であるレッテル張りを多用し他者を敵か味方かに分類する点である。そして敵と認定したものは陰謀の画策者だから決して正しいことは言わないと決めつける。敵は陰謀を仕掛ける側なのでどんなにもっともらしいことを言ってもどんなにそれらしい調査結果を出してきても簡単に完全に「論破」できる。なにしろ敵なんだから言ってることはすべて嘘に決まっている。何一つまじめに取り合う必要はなく、否定だけが正しい態度である。もう自分にとやかく言える者はどこにもいない。誰かに「論破」されてプライドを傷つけられることもない。こうしてネット上では「無敵」の反知性主義が増えているようだ。
 誤解のないように言っておくが、他人の意見を何でもすぐに信じるのではなく疑いを持つのは良いことである。しかし、考えて考えて疑って疑ってそれでも疑念の余地が無くなったものは認めなくてはならない。そうして考えを改め手持ちの情報をリフレッシュすることは敗北でも何でもない。それこそが成長である。成長できない大人が増えて社会がこれまでにないくらい幼稚化している。あなたは成長できるだろうか。

著作/ 葉無尾鰭(はなしのおひれ)
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