文殊の知恵と衆愚

三人寄れば文殊の知恵?

 文殊菩薩は知恵を司る仏である。三人寄れば文殊の知恵とは取るに足らない凡人でも三人も集まって知恵を出せば文殊菩薩に匹敵しうるという意味である。 民主主義を正当化する主張と言えるだろう。しかし、民主主義は時に衆愚政治に陥るとも言われる。人は集まると賢くなるのか、はたまた愚かになるのか、これでは分からない。 人が集まることと知性の関係を考えてみよう。

烏合の衆が仏に迫る条件

 多数の知恵が一人の知恵に勝るのはそれが足しあわされるからである。各人が他者の意見を拒絶して自らの考えに固執すれば多数の知恵はバラバラの一人一人の知恵のまま混ざることも足しあわされることもない。それは、まとまりがなく何一つ決められない烏合の衆である。多数の知恵が一つのまとまった考えになるためには、それぞれが他者の考えを受け入れること、つまり「開かれている」ことが必要である。
 では他者を受け入れればそれでいいのだろうか?もちろんそれだけでは足し算にならない。各自が他者の考えを受け入れつつもそこに独自の考えを付け足さなければ足し算ではない。それは初めの考えの補足であったり、修正や改良、あるいは解決策までは分からないがとにかく問題点の指摘という形をとるかもしれない。ひとつの考えは様々な批判や異論にさらされながら洗練されていくものである。批判や異論というと他人を否定する悪いものだと思っている人がいるが、それは違う。どんな考えでもそれが初めから完璧ということはない。様々な立場、様々な視点からチェックを受けて磨かれ鍛えられていくものである。一人の視点では見落としていたような盲点、それを他者の目から補うことができる点に「三人寄れば…」の真価がある。すなわち、各自が互いに相手の考えを尊重しあっていい部分は認めながら、しかし独自の視点でアイディアを補完しながら更なる高みを目指すこと、つまり「独自性」を発揮することが重要である。他者に流され、いつまでたってもその人独自の発想を加えないならば、最初の一人の考えは永遠に一つの平凡な知恵のままである。
 烏合の衆が仏に迫る条件をまとめてみよう。それは各人が「開かれた」「独自性」を持つことである。「開かれた」つまり他人の考えを一旦受け止め、よく吟味したうえで場合によっては自分の考えの方を改める覚悟を持つこと。コミュニケーションの基本であり社会の基礎である。自分の考えは決して変えないと頑なになっている人に成長も進歩もない。それはある意味死んでいるのと変わらない。しかし、だからと言って他人に流されるだけではいけない。「独自性」はあなたがあなたであるために不可欠な要素だし、健全な社会はそれを求めている。あなたがあなたであることをやめて誰かのロボットやイエスマンになれという社会や組織があるとすればその方が不健全である。残念ながら日本社会は伝統的にそのような同調圧力が強いのだが、伝統がすべて尊いわけではない。悪い伝統は断ち切らなくてはならない。

イエスマンと衆愚

 イエスマンは知恵の足し算に貢献しないだけではなく、社会にとって危険な存在である。イエスマンが持ち上げる知恵は他者の批判によって洗練される機会を失うだけではなく、多くの場合に根拠なく自信を深め、他者の目や批判を忘れ、謙虚さや慎重さを欠き、判断を鈍らせる。つまりイエスマンが持ち上げる知恵は劣化して腐る。だから、目端の利く知恵者はイエスマンを身近に置かないものである。
 イエスマンはまた体制翼賛を好む。自分の判断に自信がないからか、判断能力の欠如がコンプレックスになっているのか、大きな権威や権力に裏付けされた意見に同調しやすい上、反対者や批判者を許さず根絶しようとする。大きな権威や権力が常に正しければまだ問題は少ない。しかし、大きな力はそれ自体が批判や反対を抑えやすいため独善的になりやすく、むしろ批判的な他者の目による修正が不可欠なのである。イエスマンが目指す知恵は一つの権威だけから生まれた、そして多くの場合イエスマンそのものの働きによって劣化された知恵である。このようなイエスマンの集団、あるいは彼らに先導された体制翼賛の集団もまた衆愚である。誤った判断を強力に実現しようとする分むしろ何も決められない烏合の衆の衆愚より罪は深いだろう。
 最後にもう一度整理しよう。多数の知恵はそれが「開かれた」「独自性」を持つときは優秀な一人の知恵に勝る。しかし、「開かれて」いないとき多数の知恵は決して混ざり合わず烏合の衆となる。また「開かれて」はいても各自が「独自性」を持たなければ誰かの意見に同調するだけのイエスマンの集まりとなる。イエスマンは時に狂信者となって一つのカリスマの意見を盲目的に実現しようとする社会の危険因子と化す。戦争や魔女狩りのような破滅的な出来事にはいつもイエスマンの集団が大きくかかわっている。
 あなたはイエスマンになっていないか。たとえ未熟でも自分の頭で考えることを重視してほしい。誰かの決めたことに無批判に追従するくらいなら、何がいいか迷い続けたほうがはるかに優良であることを知ってほしい。迷い続け考え続けることが個人もまた社会もより良いものに変えていくだろう。

著作/ 葉無尾鰭(はなしのおひれ)
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