すべての主張は偏っている

公正・中立の難しさ

 社会的に責任ある一部の人々、例えば研究者、教育者や報道関係者などは公正・中立であるべきだと考えられているようだ。しかし公正・中立とはそんなに簡単なものではない。
 人にはそれぞれの立場や生活環境があり、ものの見方や考え方は必ずその制約を受ける。一人の人間に自分が今置かれている立場を無視して、万人の立場や生活環境を代表したような、ある意味得体のしれない「公正・中立」という立ち位置からの見解を求めることは不可能である。誰も今の自分という立場や思考の枠から逃れることは出来ず、仮にそれを逃れて「公正・中立」的なものを物差しにしようとしてもそれがどんなものか見たことさえないのだから。
 そんなことはない、多くの人の意識や考えを調べてその平均をとればそれが「公正・中立」の基準になると考える人がいるかもしれない。多くの人にアンケートをとればそこから公正・中立がどんなものか見えてくるではないかと。しかし、アンケートの公正さを実現するのは実に難しい。次にそのことを考察してみる。

矛盾する2つのアンケート

 ここに相反する2つのアンケート結果がある。現在の社会に満足しているかどうか問うもので、2017年4月に内閣府が公表した世論調査では満足とやや満足を合わせて59.3%、一方検索サイトのYahooがネット上で集計したアンケートでは大いに満足とやや満足を合わせて29.6%である(内閣府のアンケート結果を受けて2017年4月集計、109,270票)。いずれのアンケートもそれぞれの数字に含まれないのは「社会に不満」と「分からない」だけであるから、内閣府のアンケートでは6割近くの人が社会に満足している反面、Yahooのアンケートではわずかに3割程度の人しか社会に満足してないことになる。
 なぜこのような違いが生まれたのか。少し考えてみることにしよう。

すべてのアンケートは不完全

 2つのアンケート結果の違いはどこから来たか?確定的な原因を明らかにすることは難しいが、いくつかの可能性は推測できる。例えば@調査対象と調査の形態、A設問の順序、B設問に対する解説の有無等の問題である。順に見て行こう。

【@調査対象と調査の形態】
 世論調査において調査の対象は重要である。調査するテーマにもよるが、なるべく多くの人、出来れば調査対象に該当するすべての人に意見を聞くのが望ましい。しかし、現実には全員調査は容易ではないので一部の人を対象にした調査が主流となる。その際、本来対象となるべき全員の中からどのようにして調査対象を絞るのか重要な問題でなる。調査対象は年齢や性別、居住地などで、また職業、年収、家族構成などにおいても本来の対象者全員の分布を崩さないように抽出されるのが望ましい。
 内閣府の世論調査は全国各地から地域に偏りが出来ないように一万人のサンプルを抽出している。しかし、国勢調査とは違い世論調査は提出が義務付けられていないので、こういった調査に無理解・無関心な人や忙しい人は提出していない。内閣府の調査では回答率は約60%であり、この時点で回答者のグループに本来調査したかった全員のそれとは何らかの性向のずれが生まれている可能性は否定できない。一方のYahooはネット上での自主的な回答であり、対象はネットユーザーに限られるうえ地域的な偏りについても一切考慮されていない。調査対象の公正さに関しては内閣府のアンケートに若干の配慮が見られるものの、いずれにせよ完璧とはいえない状態である。

【A設問の順序】
 回答者に余計な先入観を与えないために一度の調査では質問を一つに限るか、余計な連想や先入観を与えないような質問の配列を意識すべきである。
 Yahooのアンケートは1問ずつ独立しているので、この点では合格である。しかし内閣府のアンケートは郵送で配布して集計するという都合上仕方ないのだろうが、複数の問が連続しており、しかもその配列がよろしくない。具体的にはここで問題にしている「社会に対する満足度」の質問の直前に「日本について誇りに思うことは何か」を尋ねているのである。つまり、このアンケートに答える人の思考の流れはこうなる。日本の誇りは何かと問われ日本のいいところを一生懸命考える。治安がいいとか、独自の文化だとか、食べ物がおいしいとか。こうして日本ってやっぱりいいところだよなと改めて認識したところで本題の質問が来る。社会に満足していますか?と。日本のいいところを一生懸命考えて日本の良さを再認識した直後だから当然満足という回答が増えるだろう。これは先入観を除いて正直で公正な意見を集計するという点ではよろしくない。Yahooと内閣府の2つのアンケート結果の違いの最大の原因はここではないだろうか。

【B設問に対する解説の有無】
 今回の2つのアンケートではあまり問題になりそうにないが、新聞社などが独自に行う世論調査で時に問題視されるのが設問についての解説である。これは次の3つの設問を比較してもらうと分かりやすい。
  1. 自衛隊の海外派兵は必要だと思いますか。
  2. 世界には戦乱によって道路や水道が失われたままの地域が多くありますが、我が国の自衛隊はそうした地域の復興に貢献することができます。また近年はこうした人道支援が諸外国に強く求められるようになってきました。このような点を踏まえて自衛隊の海外派兵は必要だと思いますか。
  3. 世界の紛争地域においては戦闘区域と非戦闘区域が明確に分かれているわけではなく非戦闘区域で活動していた部隊が戦闘に巻き込まれる可能性は無視できません。また紛争地域に自衛隊を送ることで日本が国際テロ組織の標的になる可能性もあります。こうしたリスクを冒しても自衛隊の海外派兵は必要だと思いますか。
 いずれも自衛隊の海外派兵の是非についての設問だが印象は大分違う。おそらくa.については「分からない」b.については「はい」c.については「いいえ」と答えたくなる人が多いのではないだろうか。
 意識調査に先入観を持ち込まないという意味では問題文に余計な解説は一切つけないのが理想である。とはいえ、それでは「分からない」という回答ばかりになったり設問の意味が取りにくかったりする場合もありうる。したがって設問に解説を付けるのが一概に悪いとは言えない。しかし、解説文の付け方次第では回答を誘導する結果になりかねないので注意が必要である。

 以上@ABのポイントを踏まえて言えることはアンケートを公正に制作し、社会の実体を正しく反映する形で実施することが極めて難しいということである。少なくとも心構えとしてはすべてのアンケートは不完全だと思うべきである。
 世論調査の結果はこれこれですと示されたときに調査対象や調査方法、設問の立て方まで見ないうちはうかつに信用しない方がいいだろう。

我々はみんな違ってみんな偏っている

 話を最初の流れに戻そう。我々は一人一人に立ち位置があり、ものの見方や考え方はどうしてもその制約を受ける。仮に世論調査から公正・中立の基準を定めようとしてもそれさえ容易ではない。むしろ我々は公正・中立な立場なるものが存在するという幻想を捨てるべきである。我々一人一人が偏っていることは我々がまさに一人一人存在していることの証に他ならない。むしろ偏っていることを当たり前として受け入れよう。
 もちろん偏っているのが当たり前だからと何でも許容するわけではない。論理的な誤りや事実との相違が明らかな主張は否定されなくてはならない。また他人の権利や主張を不当に侵害するような意見も許すべきではない。しかし、そうした明らかに問題がある意見を別にすればすべての意見はそれぞれのかけがえのない偏りから生まれた真実の一つに違いないのである。自分と違う意見は「よく分からない」「ウザい」と思うこともあるが、なぜこの人はこんな事を主張するのかと考えることから新たな発見も人としての成長も生まれるものだ。自分とは異なる他者を受け入れる度量というものを身に付けてほしい。
 高校までの教育では誰かが用意したただ一つの正解が求められることが多かったと思うが、社会はそして自然界ですらそんなに単純なものではない。これから大学で学習しまた社会に出て行く皆さんは教員や専門家や政治家や上司の言葉が絶対に正しいものだとは思わず常に自分の頭で柔軟に考える習慣とそのための力を付けてほしい。

著作/ 葉無尾鰭(はなしのおひれ)
inserted by FC2 system inserted by FC2 system