学問は公正でありうるか

 多くの人が当たり前のように前提化している「公正」「中立」というものが、実はそれほど自明ではない、というよりそのようなものは分からないと考える方が健全であることはすでに述べた。
 では、科学や学問と言われるものはどうだろうか。学問の世界は普通、立場の違いを超えて普遍的で客観的な事実を扱うものと考えられている。それは本当だろうか。学問の公正さについて考察してみよう。


現代は奴隷制である

 学問について考察する前に、誰も敢えて指摘しない現代社会の事実を確認しておこう。つまり現代社会は未だ奴隷制であり、生まれながらに十分な資産や社会的地位を持たない者は本質的に奴隷であるということだ。
 現代の奴隷は鎖につながれていない。しかし、賃金あるいは雇用という目に見えない強力な鎖につながれて自由な行動を、時に自由な発想さえ制限されている。ほとんどの現代人は生活に必要な蓄えを十分に持たない。つまり誰かに雇われて働き賃金を貰わなければ生きていくことができない。「働かざる者食うべからず。」一点の疑いもない真実のように言われているけれど、誰かに雇って頂かなくては命をつなげない、というのは随分と不利な立場である。雇用者と被雇用者の立場というのは決して対等ではない。ブラック企業、パワハラ、過労死がまかり通っているのが多くの「先進」国の姿である。このように賃金制度によって縛られた現代の奴隷は賃金奴隷と呼ばれる(賃金奴隷の地位を奴隷主と対等にしうるのは労働組合の存在であるが、残念なことに現代日本では有力かつまともな労働組合はつぶされ、更に労働組合は悪という印象操作がまかり通っている)。
 賃金奴隷は古代の奴隷と違って主人を選ぶことができる。しかし逆に言えば、それは定まった主人つまり自らの品質を管理し生命と健康を維持してくれる管理責任者を持たないということでもある。現代の奴隷主は奴隷を買い取りではなくレンタルで使う。だから使いつぶしても損をしない。文句を言ったら解雇すればいいし、言わなければ死ぬまで働かせればよい。一見自由で平等のように見せながら、ここまで倫理の失われた時代はなかったのではないか。かつて奴隷は財産であり保護の対象だった。目端の利く奴隷主なら奴隷の健康や衛生管理には気を使ったし必要であれば教育も施した。奴隷の才能を見込んで市民権を与え、養子にした例もある。現代人が自らを幸福だと思えないのは現代が隠れた、そしてより凶悪な奴隷制の時代だからである。


研究者も賃金奴隷である

 現代の奴隷制は高度に進歩してかつて「先生」と呼ばれ人々の尊敬を集めた階層の人々も次々と奴隷化している。医師然り、弁護士然り、研究者や芸術家も例外ではない。研究者や芸術家は物好きな資産家のパトロンを見つけて活動するのが主であったけれど、現代はそういう牧歌的な時代ではない。賃金奴隷と化した研究者はわずかな国家予算や企業の研究費を求めて競争する。
 競争はときに優れたものを生み出す原動力になるが、過度の競争はマイナス面も大きい。こうしたマイナスは一つには研究の方向性や動機という点で現れ、もう一つには研究の劣化として現れる。順に説明する。
 第一に研究の方向性がスポンサーすなわち研究費を出す国家や企業の意向で決められる問題を考える。研究者の仕事の半分は予算を取ってくることであり、予算の出ない分野やスポンサーの嫌う内容での研究は難しい。放射線の安全性や原子力発電の経済性・安全性に関する研究分野では、スポンサーである政府や電力会社の意向が強く意識されるようになっており、研究内容の公正さに疑問を感じざるを得ないことが多い。福島第一原子力発電所の過酷事故以降、まるでそれ以前の研究成果などなかったかのように放射線の危険性を過小に見積もる論文や研究者が目立つようになった。嘆かわしいことである。もちろん良心に従いあくまで自ら正しいと思うことを主張するまっとうな研究者もいる。しかし、そうした人は少数派であり、業界内でも迫害され、地位や影響力を失っていく。学問は必ずしも公正・中立というわけではない。
 第二の問題、過度の競争がかえって研究の質を落とすことを説明する。研究者の業績は学術雑誌などに掲載された論文の本数で評価されることが多い。そのため、一本の論文でまとまるところをいくつかに分割して論文の本数を水増ししたり、発表を急ぐあまりよく確認しないで不完全な実験結果を発表したり、甚だしい場合には研究成果のねつ造さえ行われる。論文を学術雑誌に掲載するにあたっては審査があるので不完全な研究やねつ造論文は弾かれそうなものだが、一つの実験を追試するのはそれ自体が一本の論文に匹敵する大変な作業なので論文の掲載を決める審査ではそこまでできない。ねつ造論文であっても一旦は学術雑誌に掲載され捏造であることが判明するまで時間がかかるのはそのためである。掲載される論文が適切なものかどうか、多くは研究者の善意に依存する。研究者の善意を損なう過度の競争は研究の質を劣化させる。


 

学問の公正を前提化してはいけない

 我々のみの周りには様々な化学物質や機械があふれている。それらに危険がないことは多くの研究者や技術者が「保証」してくれている。しかし、現実には不適切な商品による被害は途切れることなく発生している。何かの事故があっても専門家は補償してくれないし、仮になにがしかの賠償金を得られたところで失われた健康や時間は帰ってこない。
 専門家でもない我々が身の回りの物すべてについて安全性と確かめて何を使うべきか、何を避けるべきか判断することは困難である。だからと言って、その判断を専門家に丸投げして生命と健康のすべてを預けてしまっては、「何か」あった時にその現実を受け入れ、そこから新しい人生を踏み出す覚悟すら生まれないだろう。我々は起こりうる危険を予見しこれを乗り越える覚悟を決めるうえでも身の回りのもの安全について関心を持ち、出来る範囲でいいから自分の頭でその安全性・危険性を考える習慣を持つべきである。


著作/ 葉無尾鰭(はなしのおひれ)
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